身勝手なあいつ【1】
「では、今日はここまで」
教壇に立った講師が終わりの合図を口にする。
それと同時に生徒たちが次々と席を立つ。
俺は鞄にテキストを詰め込むと、ずっしりと重みの増したそれを肩に引っ掛けた。
教室から出て行こうとすると、背後から呼び止められる。
「慶太(けいた)。帰りにメシ食って帰んない?」
振り返ると、そこにいたのは小学校のときからの友人の俊輔(しゅんすけ)だった。
にこにこと人の良い笑顔が向けられる。
「今日はちょっと用があるんだ」
ごめん、と謝ると俊輔は断られると思っていなかったのか、驚いた表情を浮かべた。
それもそうだろう。塾帰りには俊輔と夕飯を食べるのが日課となっていたのだから。
教室にある掛け時計を見上げると、あと十分足らずで九時になりそうだった。
「やば、もう時間ないや。じゃあ、俊輔。月曜日学校で」
「わかった。じゃあな」
手を上げて別れを告げると、俺は慌ただしく小走りで教室を出て行った。
建物から外へ出ると、ひんやりと心地良い冷たさの空気に包まれた。
真っ黒で少し癖のある俺の髪を、風がさらりと撫でていく。
六月に入り、日中は日差しが強くなってきたが、夜になるとまだ涼しさが残っていた。
週末のこの時間になると、街中は酔っ払ったサラリーマンや若者たちで溢れかえっている。
人混みを縫うようにして歩いていくが、それでも大人たちで視界が塞がれてうまく前に進めない。
「これじゃ約束の時間には間に合わないかな・・・」
確認するように独り言をぽつりと漏らす。
待ち合わせ場所のセントラルビルまでは、ここからだとどう急いでも歩いて十分はかかる。
「今日は特に遅刻したくないのに・・・」
妙なところで生真面目で、特に時間に対しては正確な俺は今の状況に眉根を寄せた。
しかも友人など親しい相手ならまだしも、これから会う相手とは初めて顔を合わすのだ。
初対面で遅刻とは決していい印象を持たないだろう。
そして更に、その相手とは多分、今後一生顔を合わすことになるのだから―。
今日は、突然出来た兄との顔合わせの日だった。
今まで女手ひとつで俺を育ててくれた母さんから「再婚したいの」と聞かされたのはつい一ヶ月前。
仕事先で出会ったという再婚相手――義彦(よしひこ)さんというらしい――にはそのとき会ったのだが、瞳の穏やかなとても優しそうな人だった。
ピシっと隙なくスーツを着こなした姿は大人の男という言葉がぴったり当てはまっていて、とても誠実そうに見えた。
なにより母さんを見る眼差しが愛おしさに溢れているのが一目で分かり、この人とならうまくやっていけると思った。
俺は再婚を大賛成し、ふたりを祝福した。
再婚相手がいると聞かされたときは驚いたが、それ以上に驚いたのは、その人には一人息子がいるということだった。
つまり父親だけでなく、兄までが一遍に出来てしまうということだ。
義彦さんに聞いたところ、その息子というのは充(みつる)さんといって、年齢は二十歳。現在大学二年生なのだそうだ。
兄弟がなく、ひとりで留守番をすることが多かった俺は、幼い頃から「兄弟」という存在にずいぶん憧れていた。
だから兄が出来ると知ったときはとても嬉しかった。
もちろん不安もあった。
俺は人見知りをする性格で、特に初対面の人だと上手く喋れない。
しかも相手は二十歳。俺より七つも年上なのだ。
(気が合いそうな人だといいんだけど・・・)
それでも不安以上に喜びの感情が遥かに大きい。
せっかく兄弟になるのだから、仲良くしたい。
一緒にどこかに出掛けたり、ゲームをしたりしてくれるだろうか―。
会ったこともなければ、写真ですら顔を見たことないが、義彦さんの息子だ。
きっと、充さんも彼のように穏やかで人好きのする性格の男性なのだろうと想像した。
胸がいつもよりうるさいのは、緊張はもちろん、喜びと期待のせいで感情が高まっているせいもあるだろう。
いつもならこんな人混みだとイライラするのだが、今日は足取りが軽い。
どうやら自分でも思っていた以上に、兄が出来ることに浮かれているようだった。
「俺って分かりやすいなぁ」
自分のあまりの単純明快さに小さく苦笑する。
顔を上げると前方からサラリーマン風の集団がこちらへ向かってきているのが見えた。
それを避けようと道の左端へ寄ったところで、ビルとビルの間の狭い空間に黒い人影のようなものが動いたのが目に入った。
「?」
自然と視線がそちらに移る。
よく目を凝らしてみると、それは男女ふたりのものだと分かった。
それと同時にふたりが何をしているのかが瞬時に理解でき、顔を真っ赤にした。
絡み合う手と手、密着する身体、そして唇―。
ふたりは抱き合いながらキスをしていた。
しかも軽いものではなく、いわゆるディープキスというやつを。
「なっ・・・」
(し、しんじられない!こんな街中なのに、人がたくさんいるのに・・・)
心の中で罵倒しつつも、視線は目の前のカップルに釘付けだった。
今年中学生に上がった俺は、最近急に性に関しての情報が豊富になった。
でもキスどころか女の子と手を繋いだ事すらない。
だからこんな場面に遭遇して、興味をひかれないほうがおかしくて・・・。
そのままの状態でどれくらいが経ったか、ふと男が視線に気付いたのか顔を上げた。
「・・・っ」
目が合った。
ヤバイ、と顔を逸らそうかと思った瞬間、男が口元をにやりと歪ませるように笑った。
(・・・え?)
男は不適な笑みを湛えたままこちらに視線を向け、抱き合っている女の太腿を弄り出す。
女はまったく俺の存在には気付いておらず、男の愛撫に身をまかせて感じ入っているように見えた。
男は大胆になり女のスカートの中に手を入れ―。
さすがに見ていられなくなった俺は慌てて顔を背けた。
ドキドキとうるさい胸に手を当てて、落ち着けと心の中で願っていると、耳によく通る低い声が届いた。
「ガキは向こうに行ってな」
「―え?」
誰に言われたのかが分からず驚いて顔を上げると、再び男と視線が合う。
(今の声、こいつの・・・?)
戸惑っている心中を読んだかのように、男がもう一度口を開く。
「お前のことだよ。・・・キスもしたことのないようなお子様は家に帰んな」
くくっ、と男はバカにしたように小さく笑った。その間も器用に手は女の身体の上を蠢いている。
「なっ・・・」
真っ赤だった顔が更にかーっと熱くなるのを感じた。
自分に見せ付けるためにその行為をしていたのだと気付いたのは、男の声に我に返ってからだった。
見ていたことを知られたという羞恥と、バカにされたという怒りで、握り締めた拳がわなわなと震える。
(なんなんだ、あの男・・・。最悪・・・!)
一刻も早くその場から離れたくて俺は踵を返した。
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