身勝手なあいつ【2】
結局、セントラルビル二階にある料亭『雅』へ着いたのは、約束の時間を裕に二十分は過ぎた頃だった。
母さんは時間に厳しい人なので、きっと小言のひとつやふたつは覚悟しないといけない。
そう思うと嫌でも溜め息がこぼれた。
店の従業員に案内されて、店内の奥にある個室へと向かう。
「・・・遅れてごめんなさい」
首を長くして待っているだろう家族たちに侘びの言葉を口にしながら、襖の戸を開ける。
おずおずと顔を覗かせると、紫壇の座卓が目に入る。
そこへ座っていたのは、母さんと義彦さん―。
(・・・あれ?)
ぐるりと部屋中を見回すが、どこを探してもいるのは二人だけ。
今日の主役である――俺も主役なのだけど――充さんの姿はそこにはなかった。
もしやお手洗いにでも行っているのだろうかと首を傾げていると、それを察したかのように義彦さんが口を開いた。
「慶太くん、ごめんね。充のやつ、まだ来てないんだよ」
「あ、そうなんですか・・・」
走ってきたせいで乱れていた呼吸を整えながら、どうにか返事をする。
てっきり自分が一番最後かと思っていたので、充さんがまだ来ていないことには拍子抜けした。
「なにか急用でも出来たんですか?」
座布団へ腰を下ろしながら尋ねると、義彦さんは困ったような表情を浮かべた。
「それが携帯へ電話しても繋がらなくてね。あれだけ遅刻はするなと言ったのに・・・」
「はぁ・・・」
なんと答えていいか分からず、なんとも間抜けな返答をしてしまう。
充さんは時間にルーズな人なのだろうか?
自分の中にあった充さんの人物像が崩れる音がする。
時間を守らない人なんて・・・と相手を罵りそうになったところで、自分も遅刻をしてきた身なのでそう思うことは身勝手だと考え直す。
きっとなにか連絡も出来ないことでも起きたのだろう―そう思うことにして、乾いた喉を潤すためにお茶に口をつける。
熱いお茶を飲み、ほっと吐息をついたところで、向かいに座っていた母さんがこちらを見た。
萌黄色のワンピースを着ている母さんは、普段より少し若く見えた。
「そういう慶太こそ、今日は遅かったわね。あんた、時間だけはうるさいくせに」
「・・・母さん、時間だけってのは余計だよ」
内心小言を言われるのではないかとひやひやしながらも、母さんの言い草に少し口を尖らせる。
そもそも時間にうるさくなったのは、他でもない母さんのせいなんだけど。
「塾が終わるのが遅かったんだよ。それにこっちに向かってる途中でちょっとあったし・・・」
言いながらも、男の声が頭の中でリフレインする。
『ガキは向こうに行ってな』
先ほどの出来事が脳裏に蘇り、再び怒りが込み上げてくる。
(人のことバカにしやがって・・・。そりゃ見てた俺が悪いけどさ、だからってあんなことしなくても)
暗がりだったので顔や年齢ははっきりと分からなかったが、それでも視線を合わせたときの強い瞳の力と、からかいを含んだ低い声だけははっきりと覚えている。
中学生相手にあんな悪趣味なことをするなんて、きっとろくでもない人間だ。
興味本位であんな光景を見なければ、こんな不快な思いをせずにすんだのに・・・と自分を責めずにはいられない。
そうしたところで後の祭りだとは分かっているのだけれど。
(まあどうせ名前も知らなければ、どこの誰かも分からない相手だし・・・)
この先ずっと会うことはないだろう。
今日の出来事は水に流してきれいさっぱり忘れてしまおう。
それが得策だと自分の中で納得していると、義彦さんが「お、やっときたか」と顔を上げた。
パタンと背後で襖の戸を閉める音がする。
どうやら充さんが来たらしい。
振り向こうと顔を上げるより早く、背後から声が聞こえた。
「あれ、みんなもう来てんの?」
よく通る低い声が、軽い口調でそう言った。
遅刻したことに関しての反省の色が含まれていないように思えて、少し引っ掛かりを覚える。
義彦さんもそう感じたのか、いつもは優しげな眦を吊り上げ目の前の息子を嗜めた。
「集まっているに決まってるだろう。約束は九時だぞ。今何時だと思ってるんだ?」
「ん〜、九時半ぐらい?」
「ぐらい?であるか。ほら、ここに座って。まずは春子さんと慶太くんに謝りなさい」
指を差し座るように促すと、充さんはわざとらしい盛大な溜め息をついた。
「へいへい。まったく、相変わらず細かいんだから」
まるで相手にしていないような物言いに絶句して、俺は後ろを振り返ることすら出来ない。
どかどかと大股で歩いてくると、俺の斜め右に胡坐をかいて座った。
そこでやっと、充さんの姿が視界に入る。
すらりとした長身に、涼しげな目元、薄い唇、凛々しい眉。
一見すると分からないが、よく見ると義彦さんと顔の造作が似ていて、さすが親子といえた。
しかし、ふたりがまとっている雰囲気はまったくといっていいほど対照的だった。
義彦さんを真面目・誠実という言葉で表すなら、充さんは不真面目・軟派・いい加減・・・そんな、決して良いとはいえない表現ばかりが浮かんでくる。
更に金色に近い茶髪と、左耳に開けたピアスが彼の外見を派手に見せていた。
(親子でここまで違うものなのか・・・)
あまりの驚きにまじまじと見つめていると、視線に気付いたらしい充さんがこちらを向いた。
悪いことが見つかったような気分になりびくりと肩を揺らすと、充さんは片眉を器用にあげ面白そうな表情を浮かべた。
「へえ、これが弟になる慶太?」
(しかも、人のこと"これ"呼ばわり・・・)
物珍しそうに眺めてくる不躾な視線に、嫌でも反感を覚える。
想像していた『兄』のイメージとは遠くかけ離れた人物に俺は少なからずショックを受けた。
(いや、それよりもこの声・・・?)
どこかで聞いたような気がする。
(どこだっけ・・・?)
出てこない答えを探そうと、再度顔を確認すべく視線を向けると、視線が合った充が「あ!」と声を上げた。
「な、なに・・・?」
「お前、さっきのガキだろ」
「・・・へ?」
(さっきの・・・・・ガキ?)
その言葉で即座に思い出すのは、数十分前の最悪の出来事。
失礼極まりない男に「ガキ」呼ばわりされたのはまだ記憶に新しい。
そういえばあの男は確か、充さんのような低い声と軽い口調ではなかったか・・・?
嫌な予感が脳裏によぎる。
「まさか・・・。あんたさっきの・・・」
声が震えた。
違うと言ってくれと願う思いも虚しく、充さんは、
「ああ、やっぱりお前か。やけにじろじろ見てくるガキがいると思ったら、それが自分の弟になる奴だったとはなぁ」
とまた俺が憤慨するようなことをさらりと言ってのけた。
「世の中意外と狭いもんだぜ」とあっけらかんと笑う男を見て、目の前が真っ暗になるのを感じた。
(あの最低最悪の男が充さん・・・。まさか俺の兄になる人だったなんて・・・)
「なぁに、慶太と充くん知り合いだったの?」
あまりに大きい衝撃を受けた俺は、のんびりとした母さんの問いかけに返事をすることも出来なかった。
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