身勝手なあいつ【7】



はじめの数日こそ、充にまたよからぬことをされないかと、ひやひやしながら毎日を過ごしていたのだが、一週間が過ぎた頃にはそれは杞憂だったことがわかった。
なぜなら、あれから今日で十日が経ったが、その間一度も充と顔を合わせていないのだ。
当初のオレの予想は当たっていて、充は毎日夜の街を遊び歩いているようで、帰ってくるのは大抵、みんなが寝静まった深夜のようだった。
オレが寝ている間に帰ってきて、朝起きる頃には充が寝ているという、すれ違いの生活を送っていた。
最初のうちは、もしかしてオレに顔を合わせにくくなって家に帰ってこないのか、と妙に勘繰っていたのだが、数日経っても充の行動に変化はないし、義彦さんに聞いても「まったく困ったものだね」と言いつつも大して気にしていない口振りだったので、やはり以前から帰って来るのは遅かったようだ。
オレは充と顔を合わせないことに、ほっとした反面、少し拍子抜けした。
頻繁に人にちょっかいを出してきたくせに、急にそれがなくなってしまうと、肩透かしをくらったような気分になってしまったのだ。
しかし同時に、あれだけ一日中充のことばかりを考え、悶々としていた自分が馬鹿らしくなってきた。
充の気まぐれに、本人がいないときにまで振り回されるなんて冗談じゃない。
オレはあの夜のことは忘れようと心に決めた。
そして平穏な日々を満喫できる幸せに浸ることにしたのだった。



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「あ〜、もう分かんねぇ・・・」
苛立ちをぶつけるようにガシガシと頭を掻くと、右手に持っていたシャープペンを机の上へ放り投げた。
目の前には参考書やノート、プリントが山のように溢れかえっていて、自分で広げておいてなんだが、あまりの量の多さに辟易してしまう。
ふと時計を見ると、あと数分もすれば日が変わるところだった。どうやら二時間以上も、休みなしで机に向かっていたようだ。
少し休憩をしようと、大きく伸びをして椅子の背もたれに体を預ける。
眠気覚ましにと淹れたものの、すっかり存在を忘れていたコーヒーに口を付けるが、あまりの不味さに眉を顰めると、再び元の場所へと戻した。元々苦味や酸味が苦手なオレにとって、冷めたコーヒーは到底飲めるものではなかった。
しかし普段ならこの時間帯になればベッドの中に入っているため、コーヒーでも飲まないとうっかり寝てしまいそうになるのだ。実は今も目を閉じると、すぐに夢の世界へと入っていけそうだった。
本音をいえば今すぐ寝てしまいたい。
「でも、そういうわけにはいかないもんなぁ。試験まであと二日だし」
来週早々から一週間に渡る試験期間に突入する。
中学に上がってからは、テストがまとめた期間に行われるので、毎回試験前になると、オレの頭は勉強の詰め込みすぎでパンクしそうになっていた。
学年ではいつもそれなりに上位の順位にいるのだが、それは決してオレの頭が特別良いわけではなく、毎回こうして必死に試験勉強を行っているからだった。
本当は勉強なんかせずに遊びたいと思うのだが、毎回順位を見せるたびに大げさなほど喜ぶ母さんを見ると、サボるということも出来なくなってしまう。
自分でも損な性格をしているとは思うが、こればかりは仕方がなかった。
とにかく今日のノルマは、まだ三分の二しか達成できていない。
どうせ明日は休みだし、徹夜をする勢いで残りの問題をやってしまおうと意気込む。
「・・・でもなぁ」
机に頬杖をつき、広げられた参考書を見つめる。
びっしりと紙いっぱいに敷き詰められた数式に眩暈がしそうだった。
どちらかといえば文系を得意とするオレは、理系、特に数学が大の苦手だった。
今も、ある一問の文章問題に手こずっている真っ最中だった。
「こんな問題、絶対オレひとりじゃ解けるわけないよ。ていうか、もう数字見るだけでも頭が痛くなりそう・・・」
すっかりやる気をなくしてしまい、どうしたものかと途方に暮れていると、背後でドアが開く音が聞こえた。
「母さん?夜食ならいらないよ」
振り返らずに言うと、予想とは違う、低い声が耳に届いた。
「珍しいな。お前がこんな時間まで起きてんの」
驚いてびくりと肩を揺し、慌てて後ろを振り返った。
そこにはドアにもたれ掛かるようにして立ち、こちらを見ている充の姿があった。
黒のパンツにシャツという服装自体はシンプルなスタイルだが、所々につけたアクセサリーや小物類がアクセントになっていて、やはりどことなく軟派な印象を与える。
週末だからと、帰ってくる時間をもっと遅くに想定していたせいで、突然の充の出現にオレは内心動揺した。
顔を合わせたのが久しぶりのうえ、一番最後に会ったのは、充に触れられたあの日の翌朝なのだ。
この十日間でようやくあの夜のことを心の中に封印して、落ち着いた日々を過ごしてきたのに、充の姿を見た途端にまた心臓が早い鼓動を刻みだす。
動揺している心を悟られそうで、充の顔を直視することができない。
オレは再び机へと向き直ることで平常心を装った。
「・・・勉強、してるだけだから」
背を向けながら素っ気無く答える。
充はオレの隣にやってくると、ひょいと手元を覗き込んできた。
すぐ側にやってきた充の顔に、一瞬ドキッとしてしまい、そんな自分に心の中で叱責をする。
(な、なんでこんなやつ相手に焦ってんだよ・・・!)
充は広げられた参考書をしげしげと眺めて、
「へえ、真面目だな」
と、若干からかいを含んだ言葉を口にした。
「う、うるさいな。別に、あんたには関係ないだろ」
オレはむっとして、まるで見るなというように机の上を腕で覆い、充を睨み上げた。
「久しぶりに顔を合わせたと思ったら、相変わらず可愛くねぇの」
充は軽く溜め息をつくと、オレの鼻をぎゅっと摘んできた。
「な、なにするんだよっ」
意表をついた充の行動に目を丸くしつつも、慌ててやめさそうとする。しかし、手を伸ばすより早く、充はオレの鼻から手を離した。
「・・・ったく」
少し赤くなった鼻を撫でていると、充が更に覗き込む顔を近付けてくる。
「どれどれ、どんな問題やってんだよ?」
「ちょ、やめろって」
充は必死に阻止しようとするオレの腕を軽々と押しのけて、参考書をひょいと取り上げた。
「あんたなんかが見ても、分かんないだろ」
さすがに中学一年生レベルの問題でこれは失礼かと思ったが、毎日遊び呆けている充のことだから、勉強なんてきっとこれっぽっちもしていないに違いない。
大学にも遊びに行ってるんじゃないかとなかば本気で思っていた。
そんなオレの心情を察したのかどうか、充は呆れたような表情を見せた。
「お前な・・・。オレのこと、バカにしてねぇ?」
「別に、正直に思ったことを言ったまでだけど。―それとも、その問題解けるの?」
「――書くもん、かしてみな」
オレの手からシャープペンを受け取ると、充は意外にも几帳面な字でノートにさらさらと数式を書いていく。
ものの一分もしないうちに、オレにとっては難解と思えた問題を解いてみせた。
「・・・すごい」
思わず感嘆の声を漏らす。
「こんな簡単な問題、解けないほうがおかしいだろ」
当たり前のように言ってのける充に、オレは口が裂けても自分が解けないことは言わないでおこうと内心誓う。
「・・・実はあんた、頭いいの?大学ってどこ行ってんだっけ?」
思いついたことを何気なく聞いたのだが、充の口から出た大学名にオレは耳を疑った。
そこは、日本の最高峰と言われている有名な国立大学だったからだ。
「・・・人は見かけによらないってよく言ったもんだな」
「あ?なんか言ったか?」
じろりと睨んでくる充に、オレは知らん顔で答えてやる。
「なにも言ってないけど」
「ったく、口の減らないやつだな。――じゃあ、出来の悪い弟のために、オレが勉強を教えてやるよ」
「は?誰が出来が悪いんだよ!あんたに教えてもらえなくても間に合ってるよ」
「へえ?じゃあその問題が分からないまま、テストを受けてもいいんだな?」
試すような充の視線に、オレは言葉を詰まらせる。
(どうしてオレがこの問題を解けないこと知ってるんだよ・・・っ)
充に勉強を教えてもらうのは、なんだか悔しい気がした。
しかし、数学が苦手なことは事実だし、なによりテストまではあと二日しかないのだ。
しばしの間考えたあと、オレは不本意ながら充に頭を下げることにした。
「・・・よろしくお願いします」
そんなオレを見て、充は満足げに頷いた。
「はじめからそうやって、素直にお願いしとけよ」
(くっそ〜!)
オレは充の勝ち誇ったような表情を見たくなくて、しばらく顔を上げることができなかった。



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